玄関は玄関らしく設計するか、否さりげなく目立たなくするか、その裏には建築家の感覚に根ざした様々な思いがあります。 私は玄関を考えると最初にフランク・ロイド・ライトの建築が浮かんできます。それは彼の建築全てに共通する点なのですが、実にさりげなく設計されています。彼は玄関をメイン空間(居間)へ到達するための、演出効果を狙った導入口と捉えていたようです。意識的にやや暗めに空間を絞って、明るい居間に達するとテラス越しに庭の緑が目に入って来るよう演出されています。彼の中期以降、ユーソニアンハウスと呼ばれるスタイルに到達してからはその考えはより明確になったように思われます。 私は写真や図面から想像していましたが、落水荘と呼ばれる住宅を実際に体験して、グロッタのように薄暗く狭い玄関を数段上った居間から、テラスの向こうの谷川越しに、木々の緑が鮮やかに目に入ってきた印象を今でも覚えています。 ケーススタディーハウスと呼ばれる、50年代北米の実験住宅の平面図を眺めていると、玄関をさりげなく取り込んでいる点は共通しています。日本の住宅プランと比べて、人のたえざる平面的移動を無意識裡の前提で、平面計画を考えているように思えます。 さて現実の住宅を振り返ってみると、日本の場合は土地が狭い上、玄関で靴を脱ぐ習慣があるのでプランがやや複雑になります。 私は基本的に目線が壁にぶつかって止まるような設計は避けてきました。玄関スペースは設けてもドアの正面のガラス越しに緑が入って来るように設計しています。最近は玄関土間を造るケースが増えました。その場合の玄関とは、居間あるいは作業場を兼ねた空間です。下駄箱や洋服入れ等の造り付け家具はなるべく見せないよう、隣接したクロークに収納するようにし、玄関らしさを感じさせないようにしています。 現在はライトの時代に比して建築空間がより抽象的になっています。そんな時代の玄関は,一見壁と見間違う同一素材の扉を開けると、そこにホールのような居間を兼ねた玄関が広がっている、そんな空間も考えられます。特にアプローチが設けられないような狭い敷地の場合、その空間から受ける唐突な印象は強いです。私にとって、人の動きを時間軸に沿って演出する設計方法も魅力的ですが、いっぺんに全てがオープンになる静止した時間の中での抽象空間も又惹かれるものがあります。
二十代の半ばから五年間程イタリアに滞在し、主に家具デザインの仕事をしていました。夏休みや他の事務所へ変わる期間にはよく旅行をしました。そんな時しばしば、日本文化について造形的側面から考えさせられる思いをしました。 例えば、人類に共通する道具類が、日本の場合は、単なる素朴な民具のままで終わらず、洗練された形にまで達するのは何故なのだろうかと。過去の日本的造型に共通するこの特徴を思う時、結局日本人はヨーロッパのような時代による様式の変化ではなく、自然に即して物の本質を掴んで洗練し、型として定着させ、継続して来たように思います。地理的な風土条件がそうさせたのでしよう。最近のDNAの比較研究で型の種類の多さから、日本人がアジアの他の国々と比べ、実に多様な人種の集まりだと言う事が解って来ました。狭い島国の中で我々は互いに共存する道を選んできたようです。過去の日本文化のシンプルでいて庶民的な特徴もよくそれを表わしています。こうした生き方の選択はこれからの地球人類の方向を示唆する貴重な事例だと考えています(新建築JT 2001年/4月号より)。