イタリア山岳都市の集合住宅については色々と建築的に取り上げられていますが、私が述べてみたいのは、この地域の中世からルネッサンスへと繋がってゆく、フレスコ画についてです。
 時代的には初期の物は12世紀頃の絵ですが、日本では鎌倉期に当たります。しかしこの頃の日本の絵画の描写力との間には、雲泥の差があります。
 平安時代の信貴山縁起絵巻等の生き生きとした人物描写や、鎌倉期の写実的な彫刻を思い浮かべると、幼いキリストを抱いているマリアの絵“マドンナ コン バンビーノ”はまるで丸太棒を抱えているマリアのような印象を与えます。しかし例え技術的には稚拙でも、私はその素朴さに惹かれました。
 油絵と違って二色の色を混ぜてもその中間の色を出せない材料の性質上、細かな色の描写には不向きですが、素材そのものの持つ色の純粋さが感じられ、風景の描写では大和絵風の印象を与えます。それでもかなりの絵は私にとって、少々退屈な代物なのですが、丁寧に見ていくと自分の好みの画家が次第に識別されてくるようになります。もう数十年も前の思い出なのでかなり名前も忘れてしまいましたが、例えば、サーノ デ ピエトラ、アンブロージュド ロレンツェット、ピエトロ ロレンツェット、等一般の絵画史では聞き慣れない名前が思い浮かびます。
  ここで重要な事はこれらの先人の存在があってこそ、後の絵画史に残る画家が輩出してきたことです。シモーネ マルティーニ、パオロ ウチェッロ、ベアト アンジェリコ、マサッチョ、ピエロ デッラ フランチェスカ等々、彼らの作品には一見してそれと解る個性的な色の美しさと、洗練された形態の一致を見ることが出来ます。
 ルネッサンス美術と言うと一般にミケランジェロやレオナルド ダビンチを思い浮かべますが、私には彼らは既にその後のバロック美術への入口に立っている巨匠ように思えます。その後のイタリアの絵画史は技術的にはすばらしい発展を遂げます。その大きな要因は遠近法の発見と油絵の技法にあると思います。単に人物の動きの描写力だけでなく、天井画では下から天使を見上げるアングル等難しい手法をこなしていく過程にその成果は表れています。
  ティエポロやティントレットはその頃の代表的な画家ですが、それは同時に初期のフレスコ画が持っていた素朴な詩情が次第に失われてゆく過程でもあります。
 この連綿と続くヨーロッパの絵画史の流れは彼らの忍耐強い技術習得の歴史を見ているようであり、又あまりにもそれが明瞭に理解できる点が、大変面白く感ぜられます。これはいずれにしろ、フレスコ画の流れ一つを取り上げて見ても、人間の表現行為が、最初の素朴な動機から、次第によりテクニカルな表現を目的とした方向に変質してゆく様子が理解できます。その中で何人かの偉大な芸術家達が単に技巧に流される事無く、その境目のぎりぎりの地点で踏ん張っているような気がしました。

 玄関は玄関らしく設計するか、否さりげなく目立たなくするか、その裏には建築家の感覚に根ざした様々な思いがあります。
 私は玄関を考えると最初にフランク・ロイド・ライトの建築が浮かんできます。それは彼の建築全てに共通する点なのですが、実にさりげなく設計されています。彼は玄関をメイン空間(居間)へ到達するための、演出効果を狙った導入口と捉えていたようです。意識的にやや暗めに空間を絞って、明るい居間に達するとテラス越しに庭の緑が目に入って来るよう演出されています。彼の中期以降、ユーソニアンハウスと呼ばれるスタイルに到達してからはその考えはより明確になったように思われます。
 私は写真や図面から想像していましたが、落水荘と呼ばれる住宅を実際に体験して、グロッタのように薄暗く狭い玄関を数段上った居間から、テラスの向こうの谷川越しに、木々の緑が鮮やかに目に入ってきた印象を今でも覚えています。
 ケーススタディーハウスと呼ばれる、50年代北米の実験住宅の平面図を眺めていると、玄関をさりげなく取り込んでいる点は共通しています。日本の住宅プランと比べて、人のたえざる平面的移動を無意識裡の前提で、平面計画を考えているように思えます。
 さて現実の住宅を振り返ってみると、日本の場合は土地が狭い上、玄関で靴を脱ぐ習慣があるのでプランがやや複雑になります。
 私は基本的に目線が壁にぶつかって止まるような設計は避けてきました。玄関スペースは設けてもドアの正面のガラス越しに緑が入って来るように設計しています。最近は玄関土間を造るケースが増えました。その場合の玄関とは、居間あるいは作業場を兼ねた空間です。下駄箱や洋服入れ等の造り付け家具はなるべく見せないよう、隣接したクロークに収納するようにし、玄関らしさを感じさせないようにしています。
 現在はライトの時代に比して建築空間がより抽象的になっています。そんな時代の玄関は,一見壁と見間違う同一素材の扉を開けると、そこにホールのような居間を兼ねた玄関が広がっている、そんな空間も考えられます。特にアプローチが設けられないような狭い敷地の場合、その空間から受ける唐突な印象は強いです。私にとって、人の動きを時間軸に沿って演出する設計方法も魅力的ですが、いっぺんに全てがオープンになる静止した時間の中での抽象空間も又惹かれるものがあります。

 敷地の中で建物以外の部分を外構と呼びます。私達建築家は設計に際して、建築空間を周りの地形の特性を読み取り、敷地全体で考えます。その際建物内部のデザインが外構に影響を与える事があります。例えば内部の床が外部まで延長したり、外壁が塀の一部になったりする事等。その意図する所は内部空間を外部まで延長してなるべく敷地の中で空間を感じさせる事にあります。そのように外部空間と、内部空間を一体化させたコ-トハウス的住宅を都市型住宅と呼んで、今後も増える傾向にあると思います。
 私が外構を明確に意識するようになったのは狭隘敷地に住宅を設計する例が多くなってきてからです。宅地の敷地面積が広い場合、建物周りの特定の決めるべき部分を除いて、植栽部分はある程度植木屋さんに任せています。しかし住宅が過密になるに従って、我々建築設計者が植栽の分野まで建築レベルで考えるようになります。それは設計に際して、周りの景観があまり期待出来ない現状の中、建築空間を敷地全体で考えるようになったからです。
 樹木の種類も変化して来ました。今日普通に使用している落葉広葉樹もかっては雑木として扱われていた物も多いと思います。以前より建物のデザインが単純で抽象化して来た事が、より柔らかい形態の樹木を求めるようになったせいです。
 都市型住宅は中庭を建物で囲むようになるので、外部に対しては閉鎖的になりますが、そこまでには至らない半中庭型もあります。例えば景観の悪い部分は閉じて、目線が遠くまで伸びる方向は開放的にしたりします。いずれにしろ与えられた敷地の中に外界から隔離されたオアシスを造りたいと考える点では同じです。私はこの敷地の中の建物を除いた部分に、現代の色々な規定の縮図ようなものを感じます。仮に都会の住宅地のあるゾーンに限って、民法上の隣地境界まで50センチメートル離す規定を取り除いただけで、その街区の景観はかなり違ってくるでしょう。しかし狭い敷地に暮らしている割に持ち家志向の強い我が国では、連棟形式のテラスハウスは賃貸物件以外では一般化しません。私達は世界でも高い値の土地に住んでいる割にはその土地を十分に使いこなしているとは言い難いです。もし社会的に家の担保価値が土地と共に総合的に考えられ、住宅の中古市場が一般に広がるようになると、住宅建築に対する考えも変わり、多分もっと土地と一体的に考えられた建物が増えてゆく事は想像出来ます。この考えは少しづつでも広まっていると思います。

 20代半ばから5年間程滞在したイタリアでの体験は、今に至るまで私の記憶の中に生き続けている。私が生活の拠点としていた北部の町ミラノは、ビジネスの為の場所として栄え、首都ローマとは性格を異にしてむしろ地味な所である。今は一見華やかなファッションの街として通っているが、現実は資本主義の激しい競争の裏にある、孤独と向かい合わせの生活の場で、昼の賑わいとは反対に暗い夜は、寒い冬の夜霧の濃さと共に私の印象に強く残っている。そんな中で、当時の私の息抜きの場、ロンバルディア平原を東に横切った終点にあり、アドリア海に面した小さな町、ヴェネチアに行く事は大きな慰めで、おそらく数十回は訪れた事と思う。私が初めてヴェネチアに行ったのは、若さに任せてイタリアから地中海沿いにスペインまでヒッチハイクで行き、ジブラルタル海峡を渡りモロッコのマラケッシュ、さらにサハラ砂漠を眼前に、赤褐色の岩だらけの大地が地平線の果てまで続いている光景を最後にして、イタリアに戻った直後である。
 初めて眼にした水の都の姿は、それまでの乾いた風景とはあまりにも違い感動的であった。それ以後私のヴェネチア通いが始まった。終着駅に近づくと、光り輝く海を遠くに眺めながら汽車は長い鉄橋を渡り始める。駅に止まるとすぐに聞こえてくる騒々しい人いきれと水上バスのエンジンの音、バスが引き起こす波で桟橋がきしる音。そして夜になると昼間の賑わいとは対照的に、しんとした車の無い町の静けさの中にただ聞こえる、ひたすら岸壁にあたる波の音。特に観光客の絶える晩秋から冬にかけての夜、全ての音を吸い尽くし、霧の中に死んだように沈むこの町の光景が思い浮かぶ。
 幸い私にはいつでも泊めてもらえる友人の家があった。サンマルコ広場からジュデッカ島へ向かう水上バスの最初がサンジョルジョマジョーレ。ここは以前ヴェネチアサミットが行われた海の中に浮かぶ教会の島。次がジュテッレと呼んでジュデッカ島で最初の駅。ここで桟橋を降り、運河辺りの道に沿って数十メートルの所が友人の家である。門扉の無い、古びたレンガ塀をくり抜いたアーチ型の門を潜り、荒れ果てた中庭を横に見ながら突き当たりにある玄関ポーチを数段上った右側の入口である。友人は当時メキシコに滞在中で、内部はがらんとした漆喰塗りの壁、天井が所々剥げていて、下地の葦が覗いている。心ばかりの小さな炊事場とシャワーにトイレ。主人の残した僅かな家具以外は何も無い。これに簡単なベッドと一冊の好きな本があれば人は充分幸福になれる。私はこんな経験を随分してきたので、イタリア語で何故家具の事をモービレ(移動出来る)と呼ぶのか実感出来る。今でもこの家の事を思うと、中庭を通って門を出た瞬間、正面に広がる運河のはるか対岸に、サンマルコ寺院の屋根が陽に照らされて光っている光景が浮かんでくる。私の記憶の中の住宅である。この家は後日、伝パラディオ作として或本の中で外観の写真を見たが、真偽の程は解らない。
 長い夏休みの1ヶ月をよくこの家で過ごしたが、私には時々訪れるもう一人の友人の家があった。それはヴェニスから汽車でユーゴスラビア方面に向かう山の中、ルゴロ村に住むチェコスロバキア人の画家の家。電気もガスも、トイレも風呂も無い粗い石積みの、農家の納屋を改造した住まいである。
 彼は子供用絵本の挿し絵を描いて生計を立てていた。夏の夜は毎晩、付近の村の若者達が大勢集まって、暖炉を囲んで飲み食いをしたものだ。特に夏休みの期間中は、外国に住んでいるチェコの若者達がたびたび泊まりに来ていた。彼等は当時つかの間のプラハの春の時代、たまたま外国に滞在中、突然ソヴィエト軍の自国への侵入により、そのまま祖国チェコから亡命の選択を迫られた人々で、多くはロンドンに住んでいた。その頃社会主義国の中で、比較的自由な立場を維持していたユーゴスラビアは、彼等が唯一肉親達と会える場所で、その帰りにこの家を訪れるのだった。
 今度はそのユーゴスラビアが内戦により分裂し、経済は疲弊し、国家崩壊の危機に瀕している。一方チェコにはやっと本当の自由が訪れている。こういういかにも大陸的な厳しい現実と彼の家が、私の記憶の中では同時に共存している。 彼には自分の家を改造する計画があって、私も泊めてもらう代わりに石のアーチ造りを手伝った。アーチは簡単な仮枠の上に積んでゆき、最後に頂上の要石を差し込むと、しっかり固定しびくともしない。そんな事に感心した。
 緑溢れる山の斜面に溶け込んで隠れるように建っている、石と赤土と所々を漆喰で固めた素朴な友人の家。家の前の木陰と木漏れ日のある小さな広場。広場の隅の木の枝で組んだ藤棚の下に、テーブル代わりに置いてある自然の切り石が思い出される。
 当時の私は、普段はミラノの設計事務所で建築や家具のデザインをしていて、休みの日には心優しい彼等の家を訪れる、そんな日々を過ごしていた。都会と田舎の往復で心のバランスを取っていた。それらの風景は多分、今でも当時の面影を残したまま、それ程変わっていないだろう。一方我々の国は戦後ずっと経済優先の道を歩み続け、同時に伝統的な景観をも又消し去って来た。そう選択せざるを得なかった部分もあるのだが、反面心の中の風景を失って来た事も又確かである。

 ニュ-ヨ-クを2週間滞在の予定で旅行したのは1995年のことでした。ライトを始め、世界的な名建築に接する事が目的でした。彼の晩年のグッゲンハイム美術館は当然訪れましたが、これはバケツのお化けとも言われ、私には傑作とは思われませんでした。
 あと数日の滞在を残して突然、別荘として建てられ、今は州政府に寄贈された、世界で一番有名な住宅の一つである彼の最高傑作、落水荘を見にゆく事を思い立ちました。ピッツバーグまで国内線で飛び、さらに車で数時間、山の中の谷川沿いの小さな滝の上にある、写真で見慣れた建物が現れた時は感動しました。彼の建築思想は一言で言えば自然と建築の有機的な一体化です。建物は彼が"黄金の額"(タリアセン)と呼んでいる、丘の頂上からやや下ったあたりに自然に溶け込ませるように建てるのを理想とし、アプローチから玄関は目立たない裏側のような場所に位置し、突然居間越しにテラスの向こうの緑が見えるように設定されているのが彼の一般的なやり方です。落水荘のアプローチも基本的には同じで、谷川に掛かる橋をいったん渡って勝手口の様な玄関から、暖炉のある洞窟のようにやや暗い石張りの居間に入ると、窓の向こうのテラス越しに、谷川の対岸に生えている新緑の木々の梢が眩しい程に目に飛び込んできます。居間の中央の天井は高く、対してテラスの前は2メ-トル程の高さに押さえて、額縁のように横長に自然を切り取っています。この手法は彼が敬愛してやまない日本建築に倣っている事が解ります。谷川に向かって水平に張り出している漆喰塗りの様なテラスと、垂直方向の自然石貼りの外壁と朱色に塗ったスチール製の連続窓との構成は美しく、それは自然の中から抽象的な造型が空中に向かって自己主張し、同時に又自然に溶け込んでいるライトの建築思想そのものと言えます。
 一方私は前年にコルビュジェ後期の傑作と言われている、スイス国境に近いフランスの片田舎に建てられたロンシャン教会を訪れた事があります。
 彼の建築の考え方はライトとは全く違っています。教会は丘の頂上に位置し、入口はアプローチの反対側にあり、人は建物を眺めながら半周して中に入るように設定されています。それは丁度台座に乗った彫刻を眺めているような印象を与えます。外壁は白く荒々しく、モルタルを投げ付けた様な仕上で、厚い壁のマッスの上に大きく彎曲したコンクリートの屋根が宙に浮いた様に乗っています。これも又抽象彫刻の印象を与える建築です。内部は暗く、祭壇に向かって傾斜した床を目が慣れるまで恐る恐る進みながら見上げると、分厚い壁に穿たれた大小不揃いの銃眼の様な単窓から色とりどりの光が差し込んで来ます。この極端にディテールを省略した建築の塊を見ていると、地中海に源を発したヨーロッパ文明は、機能主義の先駆者と言われたコルビュジェをして晩年、忘れていた郷愁の世界へと回帰させて行った様に思います。
 二人は20世紀最大の建築家と言われていますが、ライトが限り無く広がるアメリカの大地を愛して止まなかったとしたならば、コルビュジェは地中海の海をこよなく愛し続けた人間と言えましょう。

 二十代の半ばから五年間程イタリアに滞在し、主に家具デザインの仕事をしていました。夏休みや他の事務所へ変わる期間にはよく旅行をしました。そんな時しばしば、日本文化について造形的側面から考えさせられる思いをしました。 例えば、人類に共通する道具類が、日本の場合は、単なる素朴な民具のままで終わらず、洗練された形にまで達するのは何故なのだろうかと。過去の日本的造型に共通するこの特徴を思う時、結局日本人はヨーロッパのような時代による様式の変化ではなく、自然に即して物の本質を掴んで洗練し、型として定着させ、継続して来たように思います。地理的な風土条件がそうさせたのでしよう。最近のDNAの比較研究で型の種類の多さから、日本人がアジアの他の国々と比べ、実に多様な人種の集まりだと言う事が解って来ました。狭い島国の中で我々は互いに共存する道を選んできたようです。過去の日本文化のシンプルでいて庶民的な特徴もよくそれを表わしています。こうした生き方の選択はこれからの地球人類の方向を示唆する貴重な事例だと考えています(新建築JT 2001年/4月号より)。

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